蠡湖(りこ)は旧名を五里湖(ごりこ)といい、漆湖(しっこ)あるいは小五湖(しょうごこ)とも称され、太湖(たいこ)が無錫(むしゃく)市内に伸びる内湖です。無錫市街の西南10kmに位置し、面積9.5km²、周囲約21km。細長く優美な蠡湖は、神秘的な 宝のひょうたんであり、万物を育む 母なる子宮のようです。その形状も名称も、数多くの美しい伝説を生み出してきました。
蠡湖(りこ)の名は春秋戦国時代の「范蠡(はんれい)と西施(せいし)」伝説に由来します。宋代『寰宇記』に「范蠡が呉を伐つ際、蠡渎(りとく)水路を開鑿してこの湖と繋いだため蠡湖と号す」と記載。司馬遷『史記・越世家』には「范蠡は越王勾践(こうせん)に仕え、20余年苦労を共にし遂に呉を滅ぼす…帰国後、范蠡は高い名声のもとでの安住が難しく、勾践が苦難は共有できても安楽は共有できない人物と悟り…珍宝をまとめ弟子たちと舟で海を渡り、永遠に帰らなかった」とあります。
後漢の袁康『越絶書』は「呉滅亡後、西施は范蠡のもとに戻り、ともに五湖(ごこ)に船を浮かべて去った」と伝えます。これにより范蠡と西施がすでに「知己にして恋人」の関係にあったことが窺えます。
伝承によれば、西施(せいし)の本名は施夷光(し・いこう)といい、浙江省の古都・諸曁(しょき)にある浣紗溪(かんさけい)西岸の苎蘿村(ちょらそん)の出身です。当時苎蘿村は東村と西村に分かれており、両村とも施姓であったため、彼女が西村に住んだことから「西施」と呼ばれました。幼少期より聡明で美しく、13~14歳には「花の顔に玉の肌」と評され、美貌の噂が諸曁一帯に広まりました。
春秋末期、呉越戦争で越が大敗した結果、越王・勾践(こうせん)はやむなく屈服して降伏。人質として呉王・夫差(ふさ)のもとに送られ、3年間にわたり馬丁として働き、あらゆる屈辱を嘗め尽くしました。
その後、毎年絹十万匹(ひき)・米十万石(こく)を貢物として納める条件で赦免されました。勾践は会稽(かいけい)に帰還すると范蠡を宰相に任命。苦難に耐え復讐を誓い、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の思いで準備を進めました。当時、若く聡明で容姿端麗だった范蠡は勾践に献策:「金帛と美女で呉王を惑わしつつ、国力を養い機を待てば、雪辱を果たせましょう」。勾践は大いに喜び、范蠡に民間から美女を選ぶよう命じました。
幾多の困難を経て范蠡が発見した西施は、素朴な衣装に驚艷の美貌。伝説では彼女の母親が「明珠を懐妊し、驚く鳥が舞い降りた」時に生まれたといわれ、范蠡はこの女性こそ民間の至宝(碧玉)にして女傑と確信しました。西施も范蠡の非凡な才幹と風格に心惹かれ、交流を重ねた末、結髮石(けっぱつせき)の上で生死を共にする誓いを交わしたのです。
その後、西施は越王の命を受け入れ苦難に耐え、遠く呉王に嫁ぎました。呉宮で彼女は范蠡と密かに連絡を取り合い国政を操り、わずか数年で越国の呉打倒を成就させたのです。
范蠡が呉宮で西施を見つけると告げました: 「越王は苦難を共に出来ても、栄華は共有できない人物だとわかった。将来の変転を測りかねる故、功成りて退き、今こそ去るべきだ」。 西施はこれに従い呉宮を離れ、小船で太湖へ。湖畔で魚を養い鴨を飼い、絹織物の取引も行いながら、平穏な生活を営んだのです。
こうしてこの地には蠡河(りが)・蠡橋(りきょう)・仙蠡墩(せんれいとん)・馬蠡港(ばれいこう)など、范蠡にまつわる伝説と地名が残されました。今や「蠡園(りえん)」と「施園(せえん)」は、まるで世に深い愛情を語り継ぐ二人の恋人のように、范蠡と西施の情愛の物語を伝えています。
実は蠡湖(りこ)の名の由来には、もう一つの美しい伝説があります。
大昔、無錫(むしゃく)の地では連年凶作に見舞われました。田畑は荒廃し、村人たちは皆ため息をつき眉をひそめていました。干魃か洪水か、人々は飢えと寒さに苦しんでいたのです。
このことを知った竜王の末娘は、民衆の災害克服を助ける決意を固めました。竜女は何度も漁村の娘に化身し太湖岸で民情を視察し対策を準備しましたが、竜王に見つかり竜宮を追放されます。追放された竜女は観音菩薩に迎えられ、その右侍者(うじしゃ)となりました。竜宮を去る直前、竜女は災害対策の任務を親友である"蠡(れい)"に託したのです。
蠡(れい)は大蛤(おおはまぐり)の化身で、無尽の力と神通力を備えていました。口で吸い込めば湖の半分を干上がらせ、吹けば水は堤防を越えました。水軍の将兵は彼女を「神霊タニシ(仙蠡)」と呼びました。蠡が太湖に到着し水を吸い上げると湖の半分が干上がりましたが、水は瞬時に戻り湖岸を水没させました。この時蠡は初めて悟ったのです——太湖に堤防がなければ水位変動で旱魃・洪水が起きると。彼女に治水の知識はあれど堤防建設の力はなかったのです。
蠡は竜女に伝え、竜女は観音菩薩に助力を懇願。衆生救済で知られる観音は、太湖から届く蠡の助け求める声を聞きつけ、天宮の神霊と水中軍勢を太湖へ派遣し堤防を築かせました。永遠の五穀成就を約束するため、観音は神霊たちに昼夜を分かたず監視を続け、離任を禁じたのです。
寒暑も雨風も分かたぬ歳月の末、神霊たちは岩塊と化し、自然の動物園のように連なる山々となりました。湖畔を見よ——黿頭渚(がんとうしょ)・蒼鷹渚(そうようしょ)・竜頭渚(りゅうとうしょ)・馬山(ばざん)・竜山(りゅうざん)・象山(ぞうざん)・虎山(こざん)・麿山(しょうざん)。湖中には——兎山(とざん)・大鷄山(だいけいざん)・小鷄山(しょうけいざん)・東鴨(ひがしがも)・西鴨(にしがも)。では蠡(れい)は?彼女は大業成ったのを見届けると、美しい漁師の娘へと姿を変え湖岸で遊んでいたのでした。
山裾の萱葺き小屋(かやぶきこや)の傍らで、彼女は精悍な若者に出会いました。若者もまた彼女の美貌に心奪われ、二人は一目惚れで契りを結びます。しかしこの行いが天条(てんじょう)に触れたため、蠡(れい)は玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)によって天の川へ召還されました。人間界を去る際、蠡は愛おしい衣を脱ぎ、これを真っ二つに裂きました。片方は湖に残し、もう片方は天の川へ持ち帰ったのです。水害の際には湖の断片が水を海へ湛(たた)え、旱魃(かんばつ)の時には天の川の断片が大地に水を注ぐようになりました。
蠡(れい)の恩を忘れまいと、人々は湖を「蠡湖(りこ)」と命名しました。蠡を深く愛した若者は、実は天界の神霊の鹿が化身した存在で、仙蠡(せんれい)への想いを募らせた末、蠡湖に寄り添う霊峰となりました。今も「鹿頂山(ろくちょうざん)」と呼ばれ、永遠の愛の象徴として崇められています。
幾千年の時を経て、蠡(れい)は人々の守護神(しゅごじん)かつ瑞祥(ずいしょう)の象徴となりました。範蠡(はんれい)という名に「蠡」の字が用いられたのも道理です。「明珠(めいしゅ)を懐(いだ)いて身篭(みごも)る」伝説に連なる西施(せいし)が絶世の美女であったように。今も蠡湖の畔できらめく「神秘の明珠」こそ、仙蠡(せんれい)が我らに想いを伝えるしるしなのです。