范蠡(はんれい):春秋戦国時代の終わり、楚の平王12年(紀元前517年)に少伯(しょうぼう)として生まれた。古代政治戦略家・軍事家・経済思想の先駆者でありながら、中国封建制の根幹である「士農工商」身分序列(商人は最下層)のため正史で軽視された。宋代には商人への黒白異色の靴着用強制といった差別法すら存在。物価調整理論「平糴法」(アダム・スミスより2,200年早い)を提唱するなど偉業を達成したにもかかわらず、官職を捨て商業に転じた経歴により、歴史的英雄群像から除外されたのである。
貧しい身分でありながら范蠡(はんれい)は卓越した知性と軍略的洞察力を有していた。若くして 百科全書的学識 を修め、天文から地理に至るまで、文武両道に精通した。しかし聖人の資質 を備えていても、世襲貴族が権力を独占する政治的混乱の楚(そ)国では、その才覚は顧みられなかった。
周景王24年(紀元前496年)、呉と越は檇李(現浙江省嘉興)で戦闘。呉王・闔閭(こうりょ)が戦死し、両国は深い怨恨を抱くようになった。周景王26年(前494年)、闔閭の子・夫差(ふさ)が復讐のため夫椒(ふしょう、現江蘇省太湖洞庭山)で越と決戦。越王・勾践(こうせん)は惨敗し、わずか5千の兵を率いて会稽山(かいけいざん)へ敗走した。この絶体絶命の時、范蠡(はんれい)が越に身を投じた。彼は「人材は時機を待ち、屈辱を耐え忍び敗北を転機にせよ」と説き、天地人の道理を論じた:「満ち溢れずして天の道に順えば、天はこれを助けん。地は万物を育むゆえ節用すれば地の恵みを得ん。危機を正し謙虚に仕えれば人の道に合い、人を動かせん」勾践に「越は必ず興り、呉は必ず滅ぶ」と断言し進言:「身を低くして呉王に仕え、転機を図られよ」上大夫(じょうたいふ)に任じられた范蠡は、勾践夫妻に従い呉で3年間奴隷として過ごす中で覚悟を固めた:「辱めに耐え志を堅持し、艱難で意志を鍛えよ。君上(きんじょう)、悲しむなかれ。臣(しん)は共に耐えん!」
帰国後、文種(ぶんしゅ)と共に越復興・呉討伐のための「九術(きゅうじゅつ)」を策定。これは「十年の生聚(人材育成・物資備蓄)、十年の教訓(軍事訓練・民心教化)」の基本計画であり、范蠡(はんれい)がその総合プランナーかつ実行責任者でした。呉攻略戦略の一環である「美人計(びじんけい)」を実施するため、自ら山野を越え苧蘿山(ちょらさん)の浣紗溪(かんさけい)で徳・才・美貌を兼ね備えた女傑西施(せいし)を探し出します。これにより、西施が大義を貫いて呉王に身を捧げ、内応者として呉を滅ぼし越を復興させるという歴史上の伝説的篇章が刻まれました。范蠡はほぼ20年にわたり越王・勾践(こうせん)に仕え、艱難辛苦に耐え続けた末に呉を滅ぼし、上将軍(じょうしょうぐん)に推戴されたのです。
「呉王は余杭山(よこうざん)にて崩御し、越王は姑蘇台(こそだい)に宴を張る。」挙国が祝賀に沸く中、范蠡(はんれい)は激流を断ち勇退を決意。西施(せいし)と共に名を隠し、五湖(ごこ)に舟を浮かべて消えました。
『史記』は「呉滅亡後、越を離れ斉(せい)に渡り鴟夷子皮(しいしひ)と称す。陶(現山東省定陶西北)に至り陶朱公(とうしゅこう)と改名、商いで巨富を得た」と記す。伝承では、范蠡は斉に移住後「鴟夷子皮」と改名し、子弟と共に海辺に茅屋を築いた。開墾に尽力し副業を兼営することで数年で数千万の資産を形成。義理を重んじ財を分かち故郷を助けた賢明さが評価され、斉王により都・臨淄(りんし)に招かれ相国(しょうこく)に任命された。
しかし3年後に再び激流勇退(げきりゅうゆうたい)し、相印を返上して財産を知己と郷里に分配。布衣の身で三たび陶へ移住。この「天下の中心」(陶:東は斉・魯、西は秦・鄭、北は晋・燕、南は楚・越に連結)の最良商業地で数年も経ず巨富を築き、自ら陶朱公と名乗ると、地元民は彼を商業守護神として崇め、中国儒商(じゅしょう)の始祖と仰がれた。
歴史家・司馬遷(しばせん)は「范蠡三たび移住するも、皆栄誉ある名声を遺せり」と評した。史書にはその生涯を「時流(じりゅう)に乗じて人を責めず」と総括し、世人は賛えて「忠をもって国に尽くし、智をもって身を全うし、商をもって富を成し、天下に名を成す」と称えた。
范蠡(はんれい)の軍事原則は:「強ければ驕慢(きょうまん)と安逸(あんいつ)を戒め平時に備え、弱ければ密かに実力を養い時機を待つ。戦においては虚(きょ)に乗じ隙(すき)を衝いて奇襲で勝利を得よ」。この戦略哲学は後世に範とされ継承された。
范蠡経済思想五大原則:
1. 農桑奨励・穀物備蓄
2. 農商併行
3. 品質保全・資金循環
4. 平価政策・市場安定
5. 反循環投資 (夏革・冬絺・旱舟・水車)
著作に『計然篇』あり。『国語・越語下』及び『史記・貨殖列伝』に記載され、『漢書・芸文志』には范蠡の兵書二篇が掲載されているが、いずれも散佚した。
西施
中国古代四大美人とは西施(せいし)・王昭君(おうしょうくん)・貂蝉(ちょうせん)・楊貴妃(ようきひ)を指し、西施はその筆頭として美の化身とされています。彼女たちは「月を閉じ 花を羞じ 魚を沈め 雁を落とす美貌」と称賛されました。
· 閉月(へいげつ): 貂蝉が月を拝んだ故事
· 羞花(しゅうか): 楊貴妃の「花見羞」逸話
· 沈魚(ちんぎょ): 西施が絹を洗う「浣紗(かんさ)」伝説
· 落雁(らくがん): 王昭君の匈奴和番故事
西施(せいし)、本名は施夷光(し・いこう)。春秋戦国時代に浙江省(せっこうしょう)諸曁(しょき)の苎蘿村(ちょらそん)に生まれました。天稟の美貌を持ち、当時越は呉に臣従する中で、越王・勾践(こうせん)は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)による復国を謀りました。国難の危機に際し、西施は屈辱に耐えて身を国に捧げ、鄭旦(ていたん)と共に呉王・夫差(ふさ)へ献上され、最も寵愛される妃となりました。夫差を惑わして家臣を離反させ国政を疎かにさせ、勾践の勢力回復を覆い隠す役割を果たし、愛国女性の崇高な思想と節操(せつそう)を体現しました。後に呉は勾践に滅ぼされ、伝説では滅亡後、西施は范蠡と五湖を舟で漂ったまま行方知れずとなり、後世まで人々の追慕を受け続けています。
西施と范蠡の物語は優美にして哀切、古より今日に至るまで 村々に伝わり続けてきました.