歴史の沿革

  蠡湖(りこ)は古代に漆湖(しっこ)・小五湖(しょうごこ)と呼ばれた太湖(たいこ)の内湖(ないこ)です。春秋時代、越の大夫(だいふ)范蠡(はんれい)が西施(せいし)と隠棲した地と伝わり、古名「蠡湖」の由来となりました。明代には既に杭州西湖(こうしゅうせいこ)と並び称される景勝地として知られ、民国初期(1910年代)、無錫県第三区長で青祁村(せいきそん)出身の虞循真(ぐ・じゅんしん)は蠡湖北岸に「青祁八景(せいきはっけい)」を整備。街道入口には。『山明水秀之区(さんめいすいしゅうのく)』の扁額を掲げ、"山水明麗の地"であることを宣言しました。

      

  民国16年(1927年)、同郷の王禹卿(おう・うけい)は上海での製粉業で富を得た後、虞循真(ぐ・じゅんしん)の支援で日本留学エンジニア鄭庭真(てい・ていてい)を招聘。青祁八景(せいきはっけい)を基に 「蠡湖から名をとった蠡園(りえん)」を着工。築山・架橋により

  **▷ 百尺廊(ひゃくせきろう)​​

  ​▷ 湖上草堂(こじょうそうどう)​​

  ​▷ 景宣楼(けいせんろう)​​

  ​▷ 涌芬軒(ゆうふんけん)​​

  ​▷ 寒香閣(かんこうかく)を建造。

  ​3年がかりで約30ムー(約2ha)** の庭園が完成しました。

  1936年、王禹卿の息子王亢元(おう・こうげん)は隣接地10余ムーを取得し、1年半かけて:

  ❶ ​凝春塔(ぎょうしゅんとう)​​

  ❷ ​晴紅煙緑水榭(せいこうえんりょくすいしゃ/湖心亭)​​

  ❸ ​頤安別業(いあんべつぎょう/スペイン風洋館)​​

  ❹ オープンエアダンスホール・プール

  ❺ 付帯設備(給水塔・発電施設)を増築。

  ​絶景の蠡園風景・快適な宿泊施設・モダンな娯楽設備で観光客を誘引し、庭園と観光の一体化という先駆的試みを実践しました。

   

  1930年代から、王禹卿(おう・うけい)の親族・陳梅芳(ちん・ばいほう)は​

  虞循真(ぐ・じゅんしん)・陳志新(ちん・ししん)に委託し、蠡園西側に ​約60ムーの漁村「賽蠡園(さいりえん)」​​ を建設。

  浙江東陽(せっこうとうよう)の工匠グループ・蔣家元(しょう・かげん)を招聘し庭内に ​築山(つきやま)を積み上げましたが、

  ​1937年の日中戦争勃発で造園が中止されたため、完成建築は極めて少数です。

  ▷ 築山前後のあずまや

  ▷ 蓮舫(れんほう)

  ▷ 百花山房(ひゃっかさんぼう)

  ​のみが建立されました。​ 

   

  無錫(むしゃく)陥落後、​

  蠡園は日本軍に接収され、

  漁莊は汪兆銘(おう・ちょうめい)政権下の江蘇省水産実験場に転用され、

  両園ともに ​重大な被害​ を受けました。

   

  抗戦勝利後、政府当局が蠡園に進駐し​

  景宣楼(けいせんろう)と頤安別業(いあんべつぎょう)を旅館に改築。

  ​1946年10月30日、蒋介石(しょうかいせき)・宋美齢(そう・びれい)夫妻が​

  誕生日を避けて無錫を訪問、景宣楼に滞在しました。

     

     建国後、人民政府が蠡園と漁莊を全面修復。​​

  ▷ 1952年:蠡園の百尺廊を西に200m延伸し漁莊と接続、統合「蠡園」に再編​

  ▷ 1954年:四季亭・アーチ橋などを増築し景観が一層優美に​

  その後、旧蠡園の一部は外事部門に編入され湖濱飯店(こひんはんてん)の庭園となり、既存の文化的景観は良好な状態を維持しています。

      1978-1982年、造園部門は28ムーの「層波が重なる景(层波叠影)」区を拡張し​

  ▷ 春秋閣(しゅんじゅうかく)

  ▷ 紅蓼榭(こうりょうしゃ)

  ▷ 数魚欄(すうぎょらん)

  ▷ 水旱廊(すいかんろう)

  ​を建造。新規区画と旧園区が気脈を通じ、あたかも最初から一体であったかのような調和を実現し、建設省優秀設計二等賞を受賞しました。​​

  新旧区域を統合後も総称は ​​「蠡園」​​ のままで、

  · ​公園管理処管轄面積: 123ムー

  · ​湖濱飯店管理区域: 約30ムー

   

  1990年、市関係部門は蠡園を省級優秀近代建築に申請。​​ その後全面改修を実施し:

  ▷ 百花山房(ひゃっかさんぼう)改築

  ▷ 太湖石築山(たいこせきつきやま)・湖岸長堤・回廊の補強

  ▷ 扁額・対聯・室内装飾品の復元

  ​1995年中国郵電部発行『太湖・蠡湖 煙る緑(たいこ・りこ けむるみどり)』​

  ​1996年朝鮮民主主義人民共和国発行『太湖』切手​

  いずれも蠡園を題材とし、​"江南水景庭園の精髄たる蠡園"の名声を国際的に高めました。​